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むかしのはなし#04 泉穴師神社の参道は往年の官庁街

文化財について保存・活用を推進する活動を行う文化財保護委員のみなさんに、泉大津市のむかしの暮らしについて語っていただきます(不定期掲載です)。

泉穴師神社の参道は往年の官庁街


「くすの大木に 風かおる 穴師の杜に 集いきて…」(穴師小学校校歌)。

創建1300余年と言い伝えられる和泉二の宮の泉穴師神社。
一の鳥居から二の鳥居へと真っすぐ伸びる約300mの一直線の参道はかつての穴師村の中心街。
その参道の西側、穴師小学校の地に穴師薬師寺が村上天皇の御代(946~967)に荘厳な本堂を建立された。
当時は穴師薬師寺の住職が、和泉の国全体の寺院を監督する職に任じられていた。

その後、豊臣秀吉の紀州攻めに泉穴師神社ともに被害に遭い穴師薬師寺は消失した。
戦乱の焦土の中より奇跡的に仏像一体を探し出し、旧地に仮堂を建てお祀りしたのが、今に伝わる奥院仏とされている。

明治になり、廃仏毀釈の嵐により廃寺となった本堂は、穴師小学校の前身の池浦小学校の校舎として利用された。
明治18年に校舎が改築されるに当たり、寺地の大部分が校庭となり、薬師寺は村役場、駐在所と共に校庭の一隅のお堂となった。
大正11年の校舎改築の際、教育と宗教の分離により、旧地を捨てて泉穴師神社参道の東側に移転し、一部の信者によって支えられ現在に至る。
昭和35年に薬師寺復興の議起こり、穴師地区の全町の賛同を得て寄進により昭和40年3月8日に御堂落慶をみるに至っている。

約半世紀以上前の私が小学生の頃の参道には、穴師薬師寺のお堂だけでなく、左側に小学校と幼稚園、右側には駐在所と消防団の分署、JAいずみのの前身の泉大津市農協の本店が並ぶ官庁街であった。

(文化財保護委員/高寺)